歴  史


パルミラとは「パーム(ナツメ椰子)の街」を意味する。紀元前4世紀頃ギリシャ人がつけたギリシャ語である。それ以前はタドモルといわれた。これは椰子を意味するアラビア語ターマールに由来するといわれている。 タドモルの歴史は古い。紀元前2370年頃のアッカド王サルゴン1世や、紀元前1700頃のバビロン王ハムラビ時代の粘土板に、タドモルの名が登場している。『旧約聖書』の「歴代志下」8章4節に、ソロモンが荒野にタドモルを建てたとある。これは紀元前1000年頃の事である。 紀元前6世紀アケメネス朝ペルシャのダリウス大王によってオリエントが統一される。タドモルも大王の統治下に入った。 紀元前4世紀アレキサンダーの東征がはじまる。タドモルにギリシャ人が植民を始めタドモルをパルミラと呼び始める アレキサンダーの武将セレウコスがセレウコス王朝を建てチグリス河畔のセレウキアと地中海沿岸のアンチオキアを二つの都と定めると、この二都を結ぶ「王の道」は人物の行き交うオリエントの大動脈となる。パルミラが隊商都市として活況を呈し始めるのはこのころからである。パルミラはシリア砂漠の真ん中にあって、ただひとつ水の豊かなオアシスである。 パルミラは、古代シルクロードに残る最も魅力的な遺跡である。悲劇的な物語を秘めたパルミラの歴史。2000年前、東は中国・インド、西はギリシャ・ローマからこのパルミラの地を目指して隊商たちの長い列が集まってきた。商人だけでなく、護衛兵・巡礼・職人・芸人、あるいは国を逃れた亡命者・学者。 険しい白雪の嶺々を越え、熱砂の渇きに耐えてきた旅人達が、パルミラ―パーム(ナツメ椰子)の繁る土地―に辿り着いた時の思いは、どのようなものだったろう。 パルミラが東西交流の幹線「シルクロード」上の隊商都市国家としてはなばなしく活動するのは、紀元前1世紀半ばから紀元3世紀半ばまでのわずか300年に過ぎない。 パルミラの名が史上に現れた紀元前1世紀頃は、漢とローマとの交流がようやく活発になり始めた時期である。 「且蘭王属大秦。従思陶国直南渡河、乃直西行之且蘭三千里」(魏略・西戒伝) 大秦とはローマのことである。且蘭とはパルミラのことである。 当時ローマ帝国とパルティア帝国(ペルシャ)が対立を続けていた。この2大強国の中間に位置したパルミラは、ローマ帝国側に属しながらも、2大勢力の均衛の上に載って国の安全をはかりローマとパルティア双方に隊商を出し、その仲介貿易によって莫大な利益を上げていったのである。隊商を保護するための軍隊・騎射隊を強化し商権を確保・拡大し、徐々に軍事力・財力を蓄えていった。 ローマの属国とはいいながら、大幅な自治権が与えられ半独立的な都市国家であり、パルミラ側からすれば名義上ローマの主権を認めていたに過ぎない。 パルミラ語は200年前フランス人ジャン・ジャック・パルテルミー、イギリス人ジョン・スウィントンによって解読されている。

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